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【デジタル魚拓DGS葛西の生まれてから今に至るまで】前編


はじめまして


都内でスマホやデジカメで撮影した画像からデジタルで実寸大の魚拓を製作するサービスを提供しております、デジタル魚拓DGS代表の葛西と申します。


デジタル魚拓DGSでは今後、HP内でコラムを毎週定期的に発信をしていこうと考えておりまして、1発目は私の生い立ちから現在に至るまでをコンパクトにまとめてご紹介させていただきますので、暇つぶし程度に最後まで読んでもらえたら嬉しいです。


1985年11月2日北海道は札幌市で、田舎町積丹の元漁師の父親と専業主婦の母親の元に産まれました。


小さい頃はとても人懐っこく、世間はバブルって事もあり物凄く可愛がられていたとよく両親からは聞かされていて、田舎町の両親なので海にはよく連れてかれてて、物心つく前から釣りはやっていたそうです。(釣れた魚が怖く泣いている写真をよく見ました)


小学校に上がってからはサッカーをするようになり、サッカーがない休みの日は父親の友人の船を借り船釣りに連れてってもらっては、北海道ではお馴染みのアイナメ・メバル・ソイ・ホッケをブラーと言う仕掛けにワームを付けてロックフィッシュで狙っており、そこからお年玉で自分用の竿や仕掛けを買い始め、釣りにすっかりハマったのを今でもよく覚えてます。


ちなみに小学4年生の時の自由研究は魚拓でした!


中学に上がってからは遊びが忙しくなり、釣りからもサッカーからも離れてしまい18歳まではだらだら遊び中心の毎日を過ごしてましたが、車の免許を取ったのをキッカケに親から車からを借り、暇だからと小樽に久々に釣りに行くようになりました!


その時は暇潰し程度で特にハマる事も無く気まぐれで行くぐらい程度に釣りを楽しんでました。


仕事やバイトも飲食店・スカウト等さまざまな職を転々としながら23歳の時に今でもお世話になっている会社へ友人の紹介で就職する事に。


海産物の営業で2年が経とうとした時、東京へ別事業で行く事なりほぼ何も聞かされないまま2011年の3月に東京へ移住。


東京に来て10日後に東日本大震災が起き、青山通りのみずほ銀行から当日住んでた板橋の社宅まで4時間以上かけて革靴で徒歩で帰ったのは今でも鮮明に覚えてます。


すごいタイミングで東京に来てしまったなと。


そこから6年ぐらいは金融関係の仕事をし、お給料も増えた事もあり沖縄に旅行で遊びに行った際に、また釣りをしたくなりネットで釣船を探しパヤオで釣りをしたところ、そこでシイラやらカツオやらキメジやらがわんさか釣れた事がキッカケで自分の中流れる漁師の血が騒ぎだし、そこから完全にまた釣りにハマりました!


東京に戻ってからはすぐに竿とルアーを購入し、子供の頃から憧れていたシーバス釣りに1人で毎週のように行くようになり、東京湾でのルアー釣りをそこで覚えました。


初めて1人で乗った遊漁船は横浜のアイランドクルーズで、その後は江戸川のぼっちによく通いました。


凝り性なのもありとにかく釣りにハマりまくって、2ヶ月に1回沖縄に釣り目的で行くようになり、行きつけの遊漁船も見つけ毎回その船でどこ見ても海しか見えないポイントまで行き、アカジンやらカンパチやらGTやら、時には100㎏を超えるサメをガチンコファイトで釣り上げ、これ以上ない遊び方を20代で覚えてしまいました!


この頃1番釣りをしていた時期で、今振り返ってもワクワクするぐらい充実した楽しい数年でした。


相模湾では黄肌鮪ブームが到来し黄肌鮪も狙いに行きながら関東でも釣りを楽しんでいましかたが、東京に来て6年ぐらい経ってからは仕事もドタバタしだし、なかなか沖縄に行く回数も減り関東でも釣りの回数が減ってきたのですが、この時期にSNSでたまたまデジタル魚拓を発見に、今の時代は魚拓もデジタルで作れてしまうんだと衝撃を受けました‼️


その頃仕事にも疲れており、自分で何か好きな事を仕事できないものかと考えていた時期で、その時にフッと思ったんです。


これなら自分でも、勉強さえすればできるんじゃないかと!


今でこそデジタル魚拓のサービスを提供する業者も増えましたが、数年前は3〜4社ぐらいしかなかったので、競合も少ないし尚且つ自分の好きな釣りに関係する仕事だったので、勤めていた社長に相談したところ、社長の知り合いの会社のパソコン強い人がいるから1から勉強してこいとすぐに話を通してくださり、2週間程度そちらの会社にお邪魔させていただきパソコンの基礎とフォトショップの使い方を1から教えてもらう事になりました。


それがデジタル魚拓DGSの始まりとなるのでした。


続く




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